2013年3月29日金曜日

ポンペイにて その1

10ヶ月ぶりにミクロネシア共和国(FSM)訪問。首都ポンペイである。

3年前の初訪問から3回目の訪問になる。

ポンペイ空港

今回もダイビングとビジネスを兼ねた訪問となった。


首都ポンペイは、グアムから乗り継ぎ、チュークを経由して、訪れることができる。

チュークは訪問したことがないが、今回も、チュークでは、何人かの日本人が降りて行った。

観光に力をいれているらしく、ジープ島などが有名で、最近日本人が多いという。


さてポンペイ・・・首都でありながらなかなか発展できない。

日本がバブルの頃は、日本人ダイビングサービスが5件あり、日本からもダイバーを中心に訪れていたようだ。

だか、以降、ダイビングサービスもなくなり、現在は、日本人ダイビングサービスは僕が関係するCLUB PALEO1件のみである。

日本から時間がかかる(トランジットを含め約9時間)。

施設が全く充実していない(近代的施設のホテルは皆無)。

など、マイナス要因が数ある中で、パラオなどに客を取れ、日本人には無名の島となってしました。
旧日本海軍の船着き場後
歴史を振り返ると、ミクロネシアは大戦中日本軍が占領した歴史があり、戦史に詳しい人には、忘れることの出来ない地域である。

特に先述したチュークは、トラック諸島といえば多くの方がご存知のはずである。

このポンペイにも、旧日本海軍の爪痕が多く残る。


そもそも、ポンペイは、スペインの植民地であった。

その後、ドイツの占領下になり、最後に日本が占領するという歴史をたどっている。

スペイン、ドイツの両国の統治時代の建物などもいくつか残り当時を垣間みることもできる。


しかし、ミクロネシア人からみると、スペイン、ドイツともにひどくしいたげらてたという過去があり、反スペイン、反ドイツの色は未だに残っている。

スペイン統治時代の擁壁
それにひきかえ、現代の親日ぶりは見事なものである。日本人の当時からの人間性が伺える対応をしてもらえる。
日本軍戦没者および
ポンペイ開拓に力を
注いだ日本人物故者の慰霊碑
 さて国自体は、そもそもが酋長の国であっただけに、なかなか文化的発展を遂げることができずにいる。

特に海外との国交では、ミクロネシアの国民性なのか、非常に消極的であり雨が豊富で海洋資源、観光資源が豊かであるにもかかわらず、放置されているのが現状だ。

雨が豊富な分、農業や漁業が盛んに感じられるが、漁業についても自分たちが食べる分だけ、農産物に限っては、一部を除き、ほとんどが栽培などはされていない。

輸出による収入ということは全く考えていない。というよりは、海洋漁業権を中国や韓国などに売り、国の収入としている。

日本人からみると非常に持ったいない国である。

国民性を見ても、海洋資源や自然農産物が豊富なため、贅沢をしなければ食べる事に困ることはないため、しゃかりきに働く男子が非常に少ない。
ドイツ統治時代の教会

非常にのんびりとした国である。これはミクロネシアに限ったことではないが、男子よりも女子がよく働く。

また、家族においても女子が中心で家族か構成されていることが多い。

詳しくはここでは触れない。みなさんの想像にお任せする。

その2に続く







0 件のコメント:

コメントを投稿