2012年9月28日金曜日

黒部の太陽に思う

1968年 石原裕次郎 三船敏郎 宇野重吉 達が出演した、超大作である。
ご存じの方も多いとは思うが、黒部第4ダム及び発電所建設に伴う、作業資材搬入用のトンネル工事のドキュメンタリー映画である。
そしてこの映画は、裕次郎のこの映画に対する思い、スケールの大きさから、裕次郎の希望でテレビ放映やDVD化は一切されていない、いわば銀幕でしか見ることのできない幻の映画なのだ。
それが、今回震災復興チャリティとして44年ぶりに全国で上映会が実施された。
奈良では、9月23日 日曜日 昼の部、夜の部の2上映であった。
僕自身は、夜の部の上映会に参加。奈良文化会館は、残念なことに来場者は少なくガランとしていた。そのような映画とだとは皆知らないのか?残念であった。

さて、僕自身の黒部との関わりを書こうと思う。

今から10年くらい前、関西電力のモニターを仰せつかった折、研修として連れて行っていただいた。
まずはトロリーバスで関電トンネル(黒部の太陽の舞台)を通り、フォッサマグナの破砕帯を通過し、黒4ダムへ。ここまでは観光ツアーと同じルート。ここからが驚愕の連絡である。
ダムの端にある、扉から一歩中に入ると、外の人の賑わいとは打って変わって、ガランとした静寂した大きなトンネルに入った。我々一行は8名ぐらいだったので、その変化に驚いた。そして、こんな所にトンネルがあったのかと驚きを隠せない。
バスに乗り、そのトンネルをひたすら進む。途中バスは一旦停止した。
トンネルに開口部がありそちらに案内された。トンネル掘削の折、廃土用に開けた開口部らしい。そこから、実は槍ヶ岳の裏側が拝める。自分自身、登山の経験が無いので、良く解らないのだが、人が、槍ヶ岳の裏側を見ることができるのはこの場所だけですと案内の方が語ってくれた。黒部は険しく、裏側を見ることができる場所まで人が入ることができないのが理由らしい。

次に案内されたのは、第3ダム及び発電所建設時に、発生した泡雪崩により84名が命を失った現場である。作業用宿舎として渓谷の中腹に建設された宿舎(1,2F RC造、3,4 W造の)3,4階部分を雪崩で押し流すのではなく、600メートル離れた、渓谷の反対側の斜面に吹き飛ばしてしまった事故である。84命中47名は遺体の確認すらできなかったという。

そして、トンネルを移動すること約30分(見学時間含む)
宇奈月側から建設資材を搬入するための傾斜エレベーターに到着する。当然このエレベーターもトンネル内にある。この傾斜エレベーターは10tダンプは余裕で運搬できる能力を持っている。その傾斜エレベーターに平行してダムでためられた水を発電所に落とす、送水管が敷設されている。
ご存じの通り、この一帯は国立公園であるためダム以外はすべて地中に埋設されている。

さてこの傾斜エレベータで、我々が乗ったトロッコごと急傾斜を下っていく。約15分くらいかかったのではないだろうか?
到着した場所が、黒部第4発電所である。当然、総てが地中にあり完全に要塞化している。
そして、そこから、トロッコに乗り、宇奈月に出るのである。途中、欅平まで約1時間、終点の宇奈月まで1時間の行程である。このトロッコは、よく知られており、欅平までは、観光客行き来ができるが、そのトロッコの本来の目的は、実は第1から4発電所及びダムの建設に物資を運び込んだトロッコであり、現在は、第4発電所の職員の送り迎えをするトロッコなのだ。
そして、発電所から欅平までの間(観光客は立ち入り禁止区域)に、有名な高熱隧道がある。工事当時地熱が100度を超え、掘削のダイナマイトが自然発火により爆発、多くの作業員が命を失った場所である。現時も、温度は下がってはいるが、地熱、湿度とも高くそこにさしかかると、トロッコの窓ガラスが一瞬にして曇った。窓を開けてみると硫黄の匂いがきつくしたことを覚えている。

建設業に従事する人間として、この経験は何にも代えることのできない、日本人としての誇りと土木技術者の使命感と覚悟を肌で感じる研修で会ったことを覚えている。そしてそこで知ったのが、「黒部の太陽」という映画であった。

先述したように、もう見ることはできない映画である。またこの研修も、たぶん2回目はないであろう。
映画の内容は、現在トロリーバスが運行されている関電トンネルの掘削が舞台であり、岩盤とフォッサマグナの境界である糸魚川静岡構造線の破砕帯を抜くという難工事である。破砕帯とは字のごとく、非常に崩れやすく、アルプス山脈に含まれる大量の水が出水するという場所で、現在を持ってしても難工事であり、当時、熊谷組が関西電力より受注しその難工事に立ち向かう関電担当者及び熊谷組の土木作業員の飽くなき努力が描かれた映画なのだ。

石原裕次郎は、熊谷組下請け会社の番頭、三船敏郎は、関電側工事責任者という配役である。

映画自体、内容だけに非常に大きなスケールで撮影され、撮影中の事故などで、石原裕次郎も一時命に関わる怪我をしている。

さて感想であるが、一にも二にも、この難航にに対して、トンネル屋として何があっても意地で抜いてしまうんだというプロ意識が随所にあらわれ、その凄さに、鳥肌が立ち、涙さえ出てくる。実際に現地を知っている私からするとその凄さはリアルであり、このブログを書きながらでも身震いするほどのものであった。
黒部第4ダム及び発電所は戦後復興の礎となると信じ、関西電力の運命をかけて着手する凄さ、関西電力経営者の覚悟、関電工事責任の、悩みながらも、思いを一つにコントロールする精神力。過去に経験したことのない難工事に立ち向かう元請け会社と下請け会社の悪戦苦闘の中にある責任感の強さ、現在では、到底あり得ないような状況で、それぞれの方向性は違えど、それぞれの思いが美味く絡み合い、最終的には、大きな目標を達成するという、現在社会、とりわけ、我々の産業では、安全品質の観点からあり得ない進め方でプロジェクトは進んでいく。ただ、彼らの努力、覚悟責任感の強さが、今の日本の礎になって脈々と引き継がれていることは間違い。そんな日本人の誇りを強く感じさせ、そして今を生きる我々にそれを思い出させるに十分な力強い映画である。

是非もう一度見てみたいが、今度はいつチャンスがあるのだろうか?

参考までに、フジテレビが50周年記念番組で、香取慎吾を主役にリメイクしている。



2012年9月18日火曜日

相手に与えるインパクト


人間を飾るという言葉を聞いて何を想像しますか?ブランドの服や装飾品しょうか?
ここではちょっと違う観点で見て見たいと思う。

皆さんは、仏教における仏様についてご存知だろうか?仏様にいくつか位があります。
最高位が如来様、二位が菩薩様 三位が明王様 四位が天部様の順です。
順位は下になるに連れ我々人間に近づくわけです。当然如来様は悟りを開いた方ですから、自らが光り輝いています。今度、お寺参りをされた時にごらんになれば良いと思いますが、上位になられるに連れ、質素なものを、纏われています。これは、自らが光り輝いているから、他のもので飾る必要がないということです。

では人間はどうでしょう?先の程の仏の位でいくと最下位なわけですから、思いっきり着飾り、装飾品をつけてもあまり目立たない存在なのでしょう。それだけ、中身ができてないということなのかもしれません。

では、人間界おいてはどうなのでしょうか?
基本的にはみんな平等な訳ですから、着飾る必要もないのでしょうが、自分の価値を高めるため、また、多くの中で自分を目立たせるため、などの自己の満足のために、着飾ったりします。決してこれは悪いことではなく、人間のせい的観点からいくと至極当たり前と言えるでしょう。
ではお金をかけて着飾ることだけで良いのでしょうか?普通であれば着飾る前に如来様を見習い、中身を磨け!と書いてしまいそうですが、それはそれで当たり前として、ちょっと視点を変えて見ます。

よく営業マンは、身だしなみに注意しなさいと言われます。特に始めての人通しがお互い会った時、相手の印象は、最初の5秒で決まってしまいます。そしてその5秒を取り返すのには相当の時間とエネルギーが必要となります。そのためにも、清潔感を持って服装を決め、ズボンはプレスをし、靴は磨き、髪の毛を整え、髭は剃りなさいとよく言われたものです。確かにその通りですし私自身も、営業にこられた時や始めての来客の時などは、同じように観察し判断している自分がいます。
ところが、これに関して、昔から、少し違和感を感じていました。
上述した内容を全部クリアしてるにもかかわらず、うまく伝わってこない人がたまにいます。皆さんもそんな感覚にとらわれた方がおおくおられるのではないでしょうか。内面的なものなのかとさらっと流していたのですが、最近それについて答えを出すことができました。
それは姿勢です。そう物理的な姿勢なんです。猫背であったり、骨の歪みから少し傾いていたり、座った時にクセのあるん座り方をする方がたくさんいます。それが、くすんで見えていた原因だったんです。姿勢は治るもんじゃないし、そんなことと言われても無理ですよと言われる方がほとんどでしょう。しかしそんなことはありません。いくら高価なもので着飾っていても、姿勢が悪ければそのポテンシャルを十分に発揮できずにもったいないことにもなります。

人間には正しい姿勢というのがあります。実はその正しい姿勢になることで、他人に対して強烈なインパクトを与えることになります。言い換えれば、それだけ正しい姿勢の人がいないということです。これは決して内面のすごさではないのですが、人間として自然な姿に戻すことが、相手に対してかっこ良い印象を与えることになるのです。そしてこれがベースとなるのです。おかしいものにいくら価値をつけても、そのポテンシャルは上がりませんし、内面から出て来るものを十分に持ってる人も、見かけの評価は下がりかねません。
姿勢のいい人には、内面とは関係なく、自身に満ちた姿に見えますし、装飾品をつけてもすべてが似合って見えるものです。デコレーションで自分を飾る前に、自分の姿を鏡で見て見ませんか?

当然、お釈迦様の姿を忘れてはいけません。姿勢良く、いらぬ装飾品で飾らずして相手に好印象、インパクトを与えられる自分を構築しましょう。

新規採用異常あり

弊社での出来事。
2ヶ月ほど前、新卒者に対しての会社説明会を本社にて開催した。弊社始まって以来のこのような催しである。
近年、新卒者のレベルの低下から、大卒も含めた新卒者採用に本格的に取り組み出した一環である。応募は、20名を若干下回る数であったが、始めての取り組みとしては上々ではないか!と、安心をしていた。
ところがである。実際当日になり、蓋を開けてみれば参加者は3名。担当のメンバーは一様に肩を落としていた。しかし、問題なのは、3名しか来なかったということではない。
問題なのは、欠席をした半数以上が、連絡なしなのだ。
担当者たちは、前日に確認の電話を入れるべきでした。としきりに反省をしているが、反省などする必要はない。常識からしても、連絡なしというのはもってのほかである。

ただここで嘆いていてもしようがない。
自分なりに、考察してみた。
約束を守れない。断ることを知らない。こんなの、学校教育でも何でもない。すべては親の教育そのものではないのか?
大人は、自分はすべて整っていると勝手に思っている。判断するのは他人であるにもかかわらずである。その未熟な親から、その親のレベルを超えた子供が育つというのは例外を除きほぼあり得ない。挨拶できない親の子はやっぱり挨拶できないのだ。
そんなことを考えていると、このような子達が世に出てきて当たり前と感じるようになった。自分が非常識でありながら、常識人であると勘違いしている親は、世の半数を充分超えているだろう。自分の姿は、子をみれば一目瞭然である。自分を棚にあげて、子を叱ってる親の多いこと。
「自由奔放に伸び伸び育てたい」若い親から多く聞く教育方針である。しかし、叱ることなく伸び伸び育てると常識も教えないをを混同している親が多すぎる。これではダメだ。
そんな環境で育ってきた子供達が、数年前から社会に出だした。
そんな子供達を我々は、採用していかなければならない。一部の経営者たちはいう。そんな子は採用しなければいいんだ。面接を無断で来ないやつに目をかける必要はない。確かにその通りだろう。
しかし、経営者の皆さんしっかり考えて欲しい。本当にそれで良いのか?それって最後自分の首を締めることにならないのか?
当然世に出て来る若者すべてが、上述したような若者でないことはわかっている。が、非常識の若者の比率は確実に増えている。良い人材は、どんどんと大手や優良企業が採用して行く。我々、小零細企業は、どこに採用に基準を持てば良いのか?今と同じような、バカは来なくて良いと言い続けていて良いのだろうか?

方法は、二つしかない。非常識なバカが来ないような会社に成長させるか、非常識の人間を別の観点から観察し、企業教育により新卒者に変化を起こさせるしかないのではないだろうか?もう親の教育は当てにならない。

我々は実はもうそんな崖っぷちに立たされている。経営者の皆さん。自分たちのところにいい人材が集まるような会社ですか?それを知ってるのは間違いなく自分ですよね。今から手を打ちましょう。一部では、就職面接に親を同伴させるという企業も出てきてるんですよ。賛否はあるでしょうけど、僕は充分意味は理解できます。面接の訓練で、自分をうまく隠す子供達の中身は親をみれば一目瞭然というところなんでしょうね。
今動かないとまた遅れをとってしまいますよ。ましてや人材の確保の遅れは経営にとって致命傷ですからね。その前に、親として自分は大丈夫なのか、自分の子供は本当に大丈夫なのか冷静に判断してみましょう。

2012年9月12日水曜日

経営理念と言う言葉の意味

理念。良く耳にする言葉である。
経営理念、憲法の理念 etc 理念を使った言葉も多くあります。

理念という言葉をちゃんと説明できますか?

中々難しいですよね。

分解してみると

理・・・ すじ ことわり 決め
念・・・ 心中深く思う

と言うことです。

以上のことから理念とは「深く思う 筋 決めごと」

と言うことになります。


会社経営にとって、経営理念はなくてはならないもの・・・・と僕は感じていた。
しかし、とあるデータを視てみみると、経営理念を持ってない会社が多いこと多いこと

経営理念がある会社が53% 
無い会社が43% 
その他(無回答を含む)3%

と言う恐ろしい数字が浮かび上がったそうだ。

小零細企業に関しては、理念なんか無くても会社運営はできるんだときっぱり言い切る経営者もいたという・・・・・ほんまかいな?

先ほど、理念については説明をした。

では経営理念とは何なのか?

先ほど同じように分解して考えてみよう

経営 事業目的を達成するために、継続的・計画的に意思決定を行って実行に移し事業を管理・     遂行すること。また、そのための組織体

と書かれている。

合わせてみると
経営理念とは「事業管理上深く思う筋、決めごと」と言うことになる。

これは、わかりやすく言い換えると、
事業遂行における基本的価値観と目的意識と言われており
カンタンに言うと、われわれは何のためにこの会社に集まっているのか?を表したものである。

先ほどの同じデータで次ぎのようなものがある。
経営理念の作成時期はいつですか?
創業時 40%
5年以内 19%
10年以内 12%
10年以上 29%
というのである。

先ほどのデータと合わせてみてみれば、経営理念があると無いが半分ずつ。尚且つあると答えた企業のうちの60%が5年以内と答えているのだから、無い会社が目立って当たり前である。

じゃぁ無くて良いのか?

経営理念とは、事業遂行における基本的価値観と目的意識であり、これがなければ、


社員が何のためにここで働いているのかがわからない(存在意義の喪失)
この会社がどうなっていくのかがわからない(将来性、夢の喪失)
何を判断の基準としていいのかがわからない(判断基準の喪失)
ということが必ず起こる
 
そして、経営理念がなければ社員の目的(ベクトル)がそれぞれの方向を向いてしまい、コミュニケーションが滞り社内に不調和や不正がおき、それが顧客に伝わり業績が低迷してしまう。
と言うくらい、経営理念というのは大切なものである。

理念の中には
自利利他、積善、陰徳、孝行、祖先崇拝
正直、勤勉、努力、本業特化、質素倹約、忍耐
などの儒教に根ざした倫理規範と経済規範があるらしい
 
中小企業が経営理念を作る場合はまず
1.大義名分、つまり何のために仕事をするのか?
  
2.これからどうしたいのかという将来の夢を語り
3.毎日の行動をする際に、何を基準にして判断したらいいのか
4.具体的にどうしたらいいのか?という毎日の行動指針を理念として示してゆく
 

理念は外にあるものではなく社長の心の中にあるものです。

経営理念は社長が作らなければ誰も作れルものではないのです。


以上のような事も含め、先述したように、理念は創業当時でないと作れないものではなく、時代に即した形で作成をして良いものだと感じている。大切なのはいつ作るかではなく、それをかに従業員全員と共有できているかだと思う。今からでも遅くはない。経営理念を作ってみよう出なはいか!

今日、経営理念の見直しをしていたとき、とあるホームページか等の内容を借用し、自分が理解するためにブログとしてみた。




2012年9月10日月曜日

とある監督の苦悩


強く生きよと母の声
死ねと教えし父の顔
走る時代の歯車ならば
人にかくれて生きるもよし
これは、世界的に有名な日本人映画監督が、東京の某所で壁に殴り書きをした一文です。1995年の出来事ですからもう30年近くなります。
今でこそ大成功を収めている、その監督もこの事件の時には、総てを投げ捨て、自暴自棄に陥っていた様子が現れています。

僕はいつもマイナス思考に入ってしまったりしたとき、この一文を思い出します。

自分は歯車で良いのか?
こそこそ隠れて生きるのが自分の生き方なのか?

良いはずがありません。
それをストレートに伝えてくれる一文です。

誰か解りますか?この監督とその事件・・・

今もその殴り書きはあるのだろうか? 久しぶりに見に行ってみるか?

2012年9月5日水曜日

ONE FOR ALL  ALL FOR ONE

一度は耳にしたことがある言葉だろう。
「一人は皆のために!皆は一人のために!!」と言う日本語訳で知られている言葉だ。

そもそもは、ラグビーのチームプレー精神を表す言葉として知られている。
が、その出所は三銃士などで有名なフランスの作家 アレクサンドル・デュマの「ダルタニャン物語」で使われていた言葉を、その意味からラグビーで使うようになったらしい。

さてこの訳 実は「一人は皆のために 皆は一人のために」は誤訳だというのだ。前半部分のOne for all の部分は正しく、後半部分のAll for one が誤訳らしい。後半部分のoneは人を指すのではなく 勝利(Victory)を指す言葉だという。
正確には「一人は皆のために 皆は勝利のために」が正しい訳だという。
これは元全日本監督 平尾誠二氏の意見である。



いかに優秀な個人であっても限界がある。しかし個人プレーがチームプレーに変われば、単純に1+1=2ではなく 3にも5にもなり得る。これがチームプレーの素晴らしいところである。ここまでは皆も理解できるだろう。

しかしこれには実は大きな条件がある。
ここで言う一人ひとりは「自立した大人であること」が大前提である。
一人ひとりが「勝利」という大きな目標に向かってしっかりと自分の足で立ってて初めて成立するのである。
誰かに寄りかかっていたり他のメンバーに甘えているようであれば、相乗効果を生むどころか、1+1=2の単純な計算も成り立たない。 
自立した大人であることが大前提なのだ。


果たして、一人前にも満たない烏合の衆がチームプレーの本質である相乗効果を生むことが出来るだろうか。お互いが助けて 助けてと言い合ってる烏合の衆の集団に絶対にあり得ない。コレは助け合いの集団ではなく、助けられあいの集団でしかないのだ。
一人前以上のプロフェッショナルが集って初めて相乗効果は発揮される。
自立し自分の食いぶちは自分で稼いでこれる人間が集まって初めて莫大な力が発揮され周りを救っていくことが出来る。

だからこそ、まずは自分の力でたつことから始めなければならない。
自分で立てもしないうちから ALL FOR ONEといって助けられ合いをするのはやめよう

泳げない人は溺れてる人を助けることは出来ないんだから

まずは勝利に向かって自分の足で立つ
そして、チームワークの相乗効果で勝利をつかむんだ。