2013年9月21日土曜日

地球に対する人間のエゴ

私たちは、本来自然に生かされるべき動物であったはずです。

自分たちの生は自然に任せるしかない動物なのです。

しかし、他の動物とは違い、知性を持ち、それをベースとして行動を起こす唯一の動物となってしまいました。

がために、人間のエゴが、自分たちのいい様に自然をコントロールし始めたのです。

勝てるはずもない自然を敵にまわして!

ある意味、社会資本整備とは、自然に打ち勝ち人間が暮らしやすい環境を整えるという人間のエゴから生まれてきたものです。

では、自然に任せるという本来の動物に戻れるかというともう後戻りはできません。

自然の脅威が増すに連れてそれに打ち勝つ社会資本整備が必要になります。

前政権では、「コンクリートから人へ」という馬鹿げた政策を取りました。

確かに社会保障も必要であることは間違いありません。

が、地球という自然を私たちは敵に回してる以上、それに打ち勝つ努力をしない限り、社会保障の議論など、無意味なものになってしまいます。

最近のゲリラ豪雨も台風時の風雨も昔に比べ比較にならないほど激しいものになってきています。

これも人間が作り出した温暖化の影響もあるでしょう。

人間と地球・・・・どちらが勝つかなんて明らかであるにもかかわらず、絶対勝つことのない、攻撃すればするほど報復をする人の最大の敵である地球を相手に打ち勝つため、地球上で唯一孤独な人間が延命作業をしているように思いませんか?

もう社会資本整備をやめて自然に自分の命を委ねてみてはどうでしょう。

というような議論が出てきても良いくらい毎年、地球の怒りに人間が犠牲になっている。

地球に打ち勝つ社会資本整備はないのだが、もう後戻りはできない。

一人の命を守るために社会資本整備は永遠と続く。

2013年9月10日火曜日

社会人としての危機管理の無さ

数日前、NHKの朝のニュースでdocomoが、iPhoneを販売するという報道があった。

流石に僕もそのニュースを信用した。
時期が時期だけに信憑性が高いと判断したからなのだが・・・

ところが、当のdocomoからは、一切そんな発表はしていないとの発表!

皆さんも覚えておられるでしょ

日本経済新聞が一番最初にすっぱ抜いたとかあとでいろんな情報は流れてきた。

docomoからiPhone

確かにビッグニュースである。

しかしこのニュースの裏に、日本の現在の象徴する実態が見えてくる。


日本人の情報に関する危機管理のなさだ。

メディアも、100%とは言わないが、ネタに信憑性がない限り記事にしたり報道したりすることはない。

何らかの信憑性があったからこそ記事にしたのだ。

そして最近、その情報の流出のほとんどは、内部からだという。

それがまだ確信犯ならしようがないとしても、ほとんどが、社員の危機管理のなさから情報が漏れているという。

自分たちの個人情報は必死に守ろうとするくせに、自分の働く場所である会社の情報については、まったくといっていいほど、意識が薄い。


まるであたかも自分でやった自慢話のように、飲み屋でそんな話を耳にしたこともある。

「こいつこんな事ここでしゃべっていいの?」と耳を疑ったものだ。


じつはこれは、情報が流出したという問題では済まない。


日本以外の各国企業は、情報の流出という危機管理のなさを一番嫌う。

これも覚えておられるかどうかわからないが、自衛隊の次期戦闘機購入問題でも、自衛官の極秘事項漏洩から、最新鋭機の購入を断られた経緯がある。これなんかはその典型だ。

私たちが住む奈良県でも、とある外資系ホテルの誘致で、水面下で極秘に進出計画を進めようとしていた某ホテルが、県職員から軽はずみな発言で、撤退した経緯がある。


民間レベルでいえばこれはもっと深刻な事態で数えきれないくらいあるだろうと思う。

島国だからなのだろうか? 単一国家単一民族だからだろうか。

国民全体に、危機管理の重要性は、他国に比べて薄い。

しかし、個人情報となると過剰に反応する。

それを考えると、単純に、過剰な個人主義、利己的考え方しかないところに行き着いてしまうが・・・・・

どんどんグローバル化が進む中で、日本人は、情報に関する危機管理を個人のベースで考えなければいづれ孤立することは目に見えている。

信用されないわけだから・・・・・

しっかりしようね日本人!       悲しい・・・・・・




この書き込みは決して、docomoがそうだったということではありません。

あしからず!

2013年9月9日月曜日

映画館という魔法の箱

最近はあまり見る機会が無くなったが、学生の頃は、映画を漁るように見ていた。

中学3年生で一年間に58本見た。今まで映画館で見た数は、200本は超えている。(最近は年2~3本程度であるが・・・)

当然、ロードショーだけではない。

最近はあまり見かけなくなった、2番館、3番館で、安い金額で古い映画を2本立て、3本立てでやっているのを観に行くのだ。

一日中、映画館にこもっていたこともしばしばあった。

当然1人で観に行く。

一日映画館にこもるのだ。

誰も付き合ってくれないし、変な奴と思われるのも嫌で、友達を誘うこともせず、1人でLマガジンのページをめくって検索していたものだ。

たぶんそんなことをしていたのは、親も知らないのではないだろうか。

どっぷりの恋愛物と、ホラーを覗いては、その当時すべてが対象だった。


なぜそんなにはまっていたのか、自分でもよく解らない。

今から考えれば、そのストーリーに入り込める自分が好きだったのかも知れない。


いまでこそ、自宅でDVDを借りてくれば、その物語は見ることが出来る。

しかし、そのストーリーに入ることは出来ない。

家の中という現実が、無意識に自分を没頭させてくれないのだ。

ある意味、映画館に足を運ぶと言うことは、そのストーリーの中に出向いていくという行為なのだ。

映画館の真っ暗がより没頭させてくれる。

まるで、近未来の映画などにあるバーチャル体験が出来る魔法の箱のような物である。

だから映画館で見るのと自宅で見るのは全く別モンに感じる。

いい映画ほど、映画館で見るべきである。

良くない映画も、映画館で見ると違う感じ方が出来るかも知れない

家でDVD見た後味と映画館で見た後味・・・・全然違うでしょ



さて、次は何を見ようか!!


一度、自分の人生を映画館で見てみたい!! ビックリするやろなぁ・・・・



2013年9月5日木曜日

決断の矛盾

前回、決断した以上は、決してやめないと書いた。

実はあれには、嘘がある。


実は、決断には、二つの決断がある。

一つは、前回も書いたように事を起こす決断である。

当然、決断をした時には、最後までやり切るという強い意思を持って望まなければならない。

当たり前のことである。


ではもう一つの決断とは何なのか?

覚悟を持ってやめるという決断である。

決断を、最後までやり切る責任と捉えてる人にとって、これはすごく矛盾したことになってしまう。

しかし、やめるという決断は存在する。

存在するどころか、実はこの辞めるという決断こそが非常に大事なのである。

事はいくらでも起こせる。

しかしその決断の責任から、それが失敗の方向に向いていることに気づいていても、「決断したのだから」という理由で辞めることができないことが非常に多い。

それが事業の足を引っ張り廃業に追い込まれているケースも多々ある。

このように事を起こす決断より、辞める決断の方が実は非常に重要であり、トータルとして良い方向に進む決断となるのだ。

決断=やり切る
ではない

決断=責任
であると思う。

言い換えれば、決断という言葉に、言葉以上の圧力を感じる必要はないのではないだろうか!

当然、「やり切る」と言う言葉より、「責任」という言葉の意味の方が重いのであるが・・・

2013年9月3日火曜日

決断の基準

決断を迫られた時、あなたは何をベースに判断しますか?

過去の経験でしょうか?

 未来への希望? 

その時の勢い?

色々ありますよね。


でもどれも正しい答えではないのですよね!

逆にいえば、すべてが正しい答えであるとも言えます。

僕は、しいて言うならば、その時の勢いが多いですね。仕事以外は・・・

仕事の時は、そうは行きません。

どちらかというと今までの自分の経験値に則って、攻撃的決断をします。

仕事以外は、本当に、その時の勢いが多いですね。


決断をしてから、行動を起こし、矛盾が生じたなら、決断した方向にぶれが出ない範囲で修正をかける。


決して辞めたりはしません。決断したんですから!!

そうすれば新しい希望の未来もよく見えてくるものなんですよ。


今日はどんな決断を下そうか!!!