2014年11月29日土曜日

目指すは内では無く、外 そして上

自分の世界、自分のフィールドで物事を判断してはいけないと前にも書いたことがある。

今回はそれを掘り下げてみたい。


自分は、人間の総ての常識を司っているわけでは無い。

と言うより、もしかしたら、自分の常識は他人から見たら殆ど非常識である場合の方が多い。

たとえば、世界が認める下手物食いナンバーワンは何人かご存知だろうか?

当然これにも色んな主観があるから一概には言えないが、実は日本人なのだ。

それは生卵を食することが世界の人には全く受け入れられない。


と言うように、自分にとって常識でも、周りから見れば非常識なことは多々ある。


ではそれを常に意識しながら行動しなければならないのか?

今の日本人は、昔に比べマシかもしれないが、他国の人からすると極端に人目を気にする。

もし自分が常識から外れているならと考えれば、恐くて行動できなくなってしまうはずである。

ではなぜ、行動できるのか?

ここに、他国の人と日本人の大きな違いがある。

日本人は、自分の行動が正しいかどうかを、同じ環境、同じフィールドに置かれている人と比較をし、その判断を下す。

具体的に言えば、サラリーマンは同じようなサラリーマン同士、経営者なら同じような経営者同士である。

よく似た境遇に安心感を求め、それを求める意識がまず最初に働く。

上にも行かないという見せかけの謙虚さと、だからといって下に下がるのも嫌だという意識が働く。

実はここに成長を妨げる要因がふんだんに含まれている。

他国の人達はどうか?

彼らは、決してよく似たフィールドの人の行動を見ることはしない。

常に、他のフィールドの人達の考えは? 

どんな判断をするのか? 

どんな行動をするのか? 

それを学び、そこから自分の行動や考えが正しいかどうかの判断をする。

常に他を見ている。そしてそれは上を見ていることが殆どである。

決して嫉妬などというようなことでは無く、強い願望やあこがれを持って、素直に認め目指しているのだ。

未経験をなくすことが、正しい道を歩む唯一の方法と知っているからだ。

だから他のフィールドを知ろうとするのだ。

故に、日本人のように同じフィールドの物同士が澱んだように集まることが少ない。


決して他国の人を見習えとは言わない。

しかし、自分は日々学び、成長と言ってる人に限って、学んだ後の行動が気になってしようが無い。

客観的に見て行動に変かがない。

会話にしてもまったく、自分の常識の域を出ていないのだ。


それは評価にも同じ事が言える。

一生懸命学ぼうとする人がいる。自分を成長させようと努力している人がいる。

それは非常に良いのだが、ある領域まで来たときに、少し変化した自分に満足をして、自分は変化ができたと誤った判断を下し、ストップしてしまうのだ。

また、同じフィールの人に変化を褒めて貰いそれに満足をしている人もいる。これも間違いである。

成長しているかどうかは、自分が判断するのでは無く他人が判断するものである。

それも同じフィールドの人では無く、他のフィールドの人が評価して初めて正しい評価なのだ。


確かに自分の殻を破るというのは大変なことである。

しかし、自力で破るのは大変でも、他人に手伝って貰えばそれは、決して難しいことでは無い。

今までそんな人を何人も見てきたし、何人も協力をした。

しかし、自分を打ち破り、今、大きく羽ばたいている人はほんの一握りだ。

これは決して、立場や役職のことを行っているのでは無い。

人間は成長すれば、するほど、得るものは大きくなる。

成長とは、学びでは無く、行動することで初めて現れる。

そんな人達の集合体で常識が出来上がれば、この国は素晴らしいものになる。

日本人よ、もっと貪欲にならないか?

日本人の素晴らしい謙虚さの意味を取り違えて、行動している人が殆どだ。

いずれ日本人が持つ本来の謙虚さについて考えてみよう。



自分の導き方が悪いのかなぁ・・・・




2014年11月26日水曜日

負けるという言葉に感謝

僕は立場上、負けるという言葉が嫌いである。

この負けるという言葉には、大きく二つの意味があると思う。

それは、言葉の意味と言うより負けたときの自分の感情に左右される。

露わに負けが悔しく自分が腹立たしく思うときと そうでないときである。

負けが悔しく腹が立つときは、自分の努力の足りなさが明確で尚且つ、その相手を自分と対等に見ているときだ。

これは明確だ

では悔しくないとき、腹が立たない負けとは?

ある意味、完敗させられたときなどは腹も立ちはしない。

それ以外にもう一つある。

良く似た目的を持ち、お互いが理解し合い相互関係で切磋琢磨できている相手には悔しさはあっても腹立たしさはない。

先を進んでいることに敬意さえ覚える。

手本にさせてね 次は俺が手本になるから…と言ったような感じだろうか…

こういう負けならいくらでも…
、とは思わないがちゃんと自分の糧になる。

最近そう思うことが増えた。

自分が丸くなったという事もあるのだろうが、そう思える知人が増えたことは間違いない。

みんなありがとう。

2014年11月25日火曜日

人は積み重ねの集大成

今、自分が表に表現しているのは一部でしかない。

それを表現するまでの積み重ねは、計り知れないものがある。

しかし、我々はその積み重ねの結果(もしくは経過)のみを表現する。

それはあえて言う必要がないからだ。

これはすべての人間に当てはまることで、大小、善悪あれど必ずその下積みがあるから今の自分がある。

その自分を頼りにしてくれる人もいる。

人間関係の構築は、決して表現している部分だけを見て評価するものではない。

その相手がそこに行き着くまでの積み重ねをしっかりと考えることこそ大事だと思う。

人を頼ると言うことは、その人の積み重ねてきた人生を頼ると言うことなのだから…

そこを見ないのなら、人を頼らない方がいい。

そんな助言を先週は東京でさせていただいた。

その人の積み重ねをしっかりしるべきである。

だからその人の今があるのだから

2014年11月10日月曜日

目指す人は尊敬する人?

あなたの尊敬する人は誰ですか?

あなたの目標としてる人はどんな人ですか?

こういう質問を投げかけられたことがあるだろう


あなたはどう答えますか?

僕は、尊敬する人は居ても目指す人は、居ませんと答えることにしている。


僕は尊敬の言葉の中に、あこがれという抽象的な言葉を含めている。

これは決してそれを目指すと言うことではなく、その人の業績に対する敬意であり、自分のそう思われる人間になれればいいなぁと言うあこがれである。

決してしてそれが目的や目標になることはない。


それに対して、目標とする人。

これはもう、言葉の通りである。

自分のそこにたどり着きたい。という強い願望がある。

ここで注意しないといけないのは、永遠の目標にしてしまってはいけないと言うことだ。

目標となる人と決別できる自分が居なければならない。

これは決して物理的に縁を切るということを言っているのではない。

目標となる対象物は、自分の環境の変化や成長により変化して当たり前だからだ。


たとえば目標としている先輩が居る。

先輩であるから年齢を追い越すことはできない。

しかし、自分の経験の積み重ねで、人間的にその先輩を超えることは十分に可能である。

超えてしまったときにそれはもう目標でなくなる。

それに気づかず、まだ追いかけて訳がわからなくなり躊躇してしまってる人を見かける。


僕はそういう意味で、目標という人は居ないと答える。


実際はいてるんですよ。

でもね口に出しちゃうと言霊でしょ

目指す対象者にその意思を伝えると、その人物が対象で無くなったときに相手は必ず気づきますからね。

人間関係の崩壊になりかねない・・・・・


最近、自分より年下に目指すべき人間が出てきた。

歳を取ってきた証拠か・・・・それともどこか気の緩みがあるのか・・・




それよりも自分が他人の目標の対象者になったとき、追い抜かれないように成長し続けないといけないプレッシャー・・・・

快感もあるが、重いよね







2014年11月9日日曜日

ポジション

ポジションにこだわる人がいる。そんな人に一杯出会ってきた。
 
そこを離れればそのポジションは無い ポジションは人間の力量の総てを決めるのでは無く、作業の円滑化を産む手法でしか無いことを当事者も配偶者も取り巻く人たちも知るべきである。(多少の力量はそこに加味されますがね・・・)

本人に言えば、これを理解できる人がほとんど・・・ 
でも、それを、忘れる人もほとんど・・・・・

ここまでは、よくいわれることである。

でもね、実はポジションも一つだけ役に立つことがある。

それは、ポジションを遂行するために、新しい領域に入ろうと努力をする。

そこで身につけたことは、そのポジションが無くなっても、人格、知識、経験として残るからだ。

それの本当の意味をわかったものだけが、そのポジションの人間になれる。

そのポジションを離れた後もね。

使い方を間違えればそれまでだが・・・

ポジションという意味を2種類使いました・・・・




相対と絶対

ガリレイやアインシュタインの相対性理論を語るつもりは無いが、最近、相対性理論を改めて勉強をしたときに、ふと思ったことがある。

それについて書いてみたい

アインシュタインの相対性理論は、時間と空間は縮み、光の速度はどのような状態でも一定であるという大方世間の想像とは違う根拠からスタートしている。

ある意味、常識を疑ったところから、相対性理論はスタートしたのだ。

では相対とは、どういうことなのか?
「他との関係の中で成り立つもの」

絶対とは
「他との関係性や、比較を必要としないもの」

と定義されている。

絶対的考え方の人は、自分の理論だけで物事を考え、それを実行に移していこうする。

その事柄が、世間の総てに影響を及ぼさないのであれば良いのだが、今我々が生きている社会はそんな生ぬるいものでは無い。

たとえ人に影響を及ぼさなくても、地球に存在する何かには必ず影響が出るはずだ。

なぜそうなるのか? 

実は無意識のうちに、我々人間は地球上の総ての物と相対的関係が成り立っているからなのだ。

宇宙空間における物理的関係だけでは無く、人間の思考や行動の中にも相対的関係は存在する。

それを前提に自分の思考を動かさなければならない。

ただそればかりを考え出すと、何もできなくなってしまうのも事実である。

確かに相手のことを最優先に考える必要は無い。

まず自分の考えをしっかり持てば良い。

しかし行動に移す前に、その事柄を実行に移せば周りにはどのような影響が出るのかしっかりと考えの中に入れなければならない。

やろうとすることが大きければ大きいほど、他に影響は出やすい。

そのことをしっかりと認識しておかなければならないのだ。


日本には、お互い様と言う言葉があるが、これとは少しニュアンスが違う。

相手を尊重するということでも無い

お互い様なんだから、やりたいことをやれば良いのでは無い。

相手を尊重して意見を聞き入れるということでも無い・・・・・


スタートをさせる段階で、他にも影響が出ることを考慮に入れ、他との関係の中で成り立つ物は何なのかをしっかりと見極め行動に移さないと行けないのだ。

自分が生きているということは、他人も自己の考え方を持って生きているということなのだから・・・・

うまく表現できないなぁ・・・・







2014年11月5日水曜日

親の教えが自分の学び

今の自分が持っている知識や常識ってどうやって身についたのか?

人間は、生まれてきた瞬間は、無の状態である。

生命学的には、動作をしているが人間としての知識は全く、無の状態である。

いわゆる他の動物と同じ状態である。

そして、生まれた瞬間から、人間は知識の蓄積をはじめる。

それを直ぐにアウトプットするかどうかは少し横に置いておいて、触覚、聴覚、味覚、感覚 (視覚)を用いて、あらゆる知識を蓄積していく。

そしてそれがいずれ、表現になって現れ出す。

喋るや、泣く怒るなんかがそれである。と言うように、人間は、無の状態から経験を積むことにより情報を蓄積し、その積み重ねにより、個人の人格の形成を行い、自分自身の常識というものを形成していくのだ。

ある意味個人の経験が、大人になったときの身体的違い以外の総て形成していると言って良い。

人の違いは、その人が歩んできた経験の違いである。

そしてその経験や学びの多くを、親から授かる。

一部、事情を除き、殆どが親から学ぶのだ。

当然、年齢を重ねるにつれ、親からの学びの比率は低くなっていくが、小さいときの人間としての道徳心や、基本となる常識は親から学ぶことが殆どである。

言い換えれば、その人間の殆どは親が決めていると行って良い。

親なのだから当たり前と思うかもしれないが、人ひとりの人生の殆どを親が決めてしまうと言うのは実はものすごく重い責任なのだ。

それだけ子を持つ親は、その責任を感じなければならない。

もしその親が、世間の常識とは違ったことを常識と感じていれば、その子供も間違った常識を正しいと感じてしまう。

これは常識的知識だけでは無い。行動も同じである。

子を育てる親として、常に自らの成長を追い求めることが、しいては子供の将来を大きく左右することになると言うことを自覚するべきなのだ。

成長を追い求める親と、成長を億劫に思う親の違いも見て解るが、それぞれの子供はもっと大きな差になって現れる。

それだけ人間が生き、子孫を残していくと言うことは責任重大なことである。

自分の成長、追いかけてますか? 頑張らなければ、子供に不幸が降り注ぎますよ。

頑張れ!! 親!!!






2014年11月3日月曜日

危険な生き方が魅力を生む

退屈を我慢できない人

すぐに何かしようとする人

でも諸事情で動いてはいけない人 

そんな状態に置かれた人ってじっとせずに、禁止されてること以外を見つけ勝手に屁理屈をつけて合法化してやっちゃうよね。

最後に怒られるの自分なのに・・・・でもそんな人だから輝いている。

安全な生き方で人に影響を与えたり、感動を与えることってできない。

あなたが、いいなぁと目指してる人ってある意味危険な・・・そんな人ではないですか?

そんな人からいろんなものを感じませんか?

そんな、0.1%にも満たない人達が、魅力を発進し、それ以外の人に憧れと感動を与える。


ある意味世間の非常識でなければ、人間の魅力は出てこない。

常識的生き方、世間体を気にした生き方に、人を引きつける力は無い。

それは、うちに秘めたるものではなく、堂々と表現しないとだめだ。


とある方への、いい意味でのメッセージです。

もっともっと飛び出せ!! 

まだまだ、この領域に来てないよ。堂々とここに来い!!

貴方ならできる!!