今回はそれを掘り下げてみたい。
2014年11月29日土曜日
目指すは内では無く、外 そして上
今回はそれを掘り下げてみたい。
2014年11月26日水曜日
負けるという言葉に感謝
僕は立場上、負けるという言葉が嫌いである。
この負けるという言葉には、大きく二つの意味があると思う。
それは、言葉の意味と言うより負けたときの自分の感情に左右される。
露わに負けが悔しく自分が腹立たしく思うときと そうでないときである。
負けが悔しく腹が立つときは、自分の努力の足りなさが明確で尚且つ、その相手を自分と対等に見ているときだ。
これは明確だ
では悔しくないとき、腹が立たない負けとは?
ある意味、完敗させられたときなどは腹も立ちはしない。
それ以外にもう一つある。
良く似た目的を持ち、お互いが理解し合い相互関係で切磋琢磨できている相手には悔しさはあっても腹立たしさはない。
先を進んでいることに敬意さえ覚える。
手本にさせてね 次は俺が手本になるから…と言ったような感じだろうか…
こういう負けならいくらでも…
、とは思わないがちゃんと自分の糧になる。
最近そう思うことが増えた。
自分が丸くなったという事もあるのだろうが、そう思える知人が増えたことは間違いない。
みんなありがとう。
2014年11月25日火曜日
人は積み重ねの集大成
2014年11月10日月曜日
目指す人は尊敬する人?
あなたの目標としてる人はどんな人ですか?
こういう質問を投げかけられたことがあるだろう
あなたはどう答えますか?
僕は、尊敬する人は居ても目指す人は、居ませんと答えることにしている。
僕は尊敬の言葉の中に、あこがれという抽象的な言葉を含めている。
これは決してそれを目指すと言うことではなく、その人の業績に対する敬意であり、自分のそう思われる人間になれればいいなぁと言うあこがれである。
決してしてそれが目的や目標になることはない。
それに対して、目標とする人。
これはもう、言葉の通りである。
自分のそこにたどり着きたい。という強い願望がある。
ここで注意しないといけないのは、永遠の目標にしてしまってはいけないと言うことだ。
目標となる人と決別できる自分が居なければならない。
これは決して物理的に縁を切るということを言っているのではない。
目標となる対象物は、自分の環境の変化や成長により変化して当たり前だからだ。
たとえば目標としている先輩が居る。
先輩であるから年齢を追い越すことはできない。
しかし、自分の経験の積み重ねで、人間的にその先輩を超えることは十分に可能である。
超えてしまったときにそれはもう目標でなくなる。
それに気づかず、まだ追いかけて訳がわからなくなり躊躇してしまってる人を見かける。
僕はそういう意味で、目標という人は居ないと答える。
実際はいてるんですよ。
でもね口に出しちゃうと言霊でしょ
目指す対象者にその意思を伝えると、その人物が対象で無くなったときに相手は必ず気づきますからね。
人間関係の崩壊になりかねない・・・・・
最近、自分より年下に目指すべき人間が出てきた。
歳を取ってきた証拠か・・・・それともどこか気の緩みがあるのか・・・
それよりも自分が他人の目標の対象者になったとき、追い抜かれないように成長し続けないといけないプレッシャー・・・・
快感もあるが、重いよね
2014年11月9日日曜日
ポジション
そこを離れればそのポジションは無い ポジションは人間の力量の総てを決めるのでは無く、作業の円滑化を産む手法でしか無いことを当事者も配偶者も取り巻く人たちも知るべきである。(多少の力量はそこに加味されますがね・・・)
相対と絶対
それについて書いてみたい
アインシュタインの相対性理論は、時間と空間は縮み、光の速度はどのような状態でも一定であるという大方世間の想像とは違う根拠からスタートしている。
ある意味、常識を疑ったところから、相対性理論はスタートしたのだ。
では相対とは、どういうことなのか?
「他との関係の中で成り立つもの」
絶対とは
「他との関係性や、比較を必要としないもの」
と定義されている。
絶対的考え方の人は、自分の理論だけで物事を考え、それを実行に移していこうする。
その事柄が、世間の総てに影響を及ぼさないのであれば良いのだが、今我々が生きている社会はそんな生ぬるいものでは無い。
たとえ人に影響を及ぼさなくても、地球に存在する何かには必ず影響が出るはずだ。
なぜそうなるのか?
実は無意識のうちに、我々人間は地球上の総ての物と相対的関係が成り立っているからなのだ。
宇宙空間における物理的関係だけでは無く、人間の思考や行動の中にも相対的関係は存在する。
それを前提に自分の思考を動かさなければならない。
ただそればかりを考え出すと、何もできなくなってしまうのも事実である。
確かに相手のことを最優先に考える必要は無い。
まず自分の考えをしっかり持てば良い。
しかし行動に移す前に、その事柄を実行に移せば周りにはどのような影響が出るのかしっかりと考えの中に入れなければならない。
やろうとすることが大きければ大きいほど、他に影響は出やすい。
そのことをしっかりと認識しておかなければならないのだ。
日本には、お互い様と言う言葉があるが、これとは少しニュアンスが違う。
相手を尊重するということでも無い
お互い様なんだから、やりたいことをやれば良いのでは無い。
相手を尊重して意見を聞き入れるということでも無い・・・・・
スタートをさせる段階で、他にも影響が出ることを考慮に入れ、他との関係の中で成り立つ物は何なのかをしっかりと見極め行動に移さないと行けないのだ。
自分が生きているということは、他人も自己の考え方を持って生きているということなのだから・・・・
うまく表現できないなぁ・・・・
2014年11月5日水曜日
親の教えが自分の学び
今の自分が持っている知識や常識ってどうやって身についたのか?
人間は、生まれてきた瞬間は、無の状態である。
生命学的には、動作をしているが人間としての知識は全く、無の状態である。
いわゆる他の動物と同じ状態である。
そして、生まれた瞬間から、人間は知識の蓄積をはじめる。
それを直ぐにアウトプットするかどうかは少し横に置いておいて、触覚、聴覚、味覚、感覚 (視覚)を用いて、あらゆる知識を蓄積していく。
そしてそれがいずれ、表現になって現れ出す。
喋るや、泣く、怒るなんかがそれである。と言うように、人間は、無の状態から経験を積むことにより情報を蓄積し、その積み重ねにより、個人の人格の形成を行い、自分自身の常識というものを形成していくのだ。
ある意味個人の経験が、大人になったときの身体的違い以外の総て形成していると言って良い。
人の違いは、その人が歩んできた経験の違いである。
そしてその経験や学びの多くを、親から授かる。
一部、事情を除き、殆どが親から学ぶのだ。
当然、年齢を重ねるにつれ、親からの学びの比率は低くなっていくが、小さいときの人間としての道徳心や、基本となる常識は親から学ぶことが殆どである。
言い換えれば、その人間の殆どは親が決めていると行って良い。
親なのだから当たり前と思うかもしれないが、人ひとりの人生の殆どを親が決めてしまうと言うのは実はものすごく重い責任なのだ。
それだけ子を持つ親は、その責任を感じなければならない。
もしその親が、世間の常識とは違ったことを常識と感じていれば、その子供も間違った常識を正しいと感じてしまう。
これは常識的知識だけでは無い。行動も同じである。
子を育てる親として、常に自らの成長を追い求めることが、しいては子供の将来を大きく左右することになると言うことを自覚するべきなのだ。
成長を追い求める親と、成長を億劫に思う親の違いも見て解るが、それぞれの子供はもっと大きな差になって現れる。
それだけ人間が生き、子孫を残していくと言うことは責任重大なことである。
自分の成長、追いかけてますか? 頑張らなければ、子供に不幸が降り注ぎますよ。
頑張れ!! 親!!!