2015年2月26日木曜日

使うところを間違えれば・・・

客観的分析 主観的解釈

どちらも非常に大切であるが、使う場所を間違えればそれは即致命傷となる。

なぜその判断が出来ないのだろう。

人間の甘えや目先の優しさという隙間がそうさせるのだろうか?

結果としてそれは優しさでも何でも無く関わる全員を貶めることになるのになぜ気づかない?

結局目指す目標が見えてないか、理解できてないのかなぁ。

悩んでしまう。

春が近いなぁ

2015年2月22日日曜日

戦うべき相手は誰なのか?

戦争のことを言っているのではない。

あなたは常に、戦い無くして生きていると思っていますか?

今日、大企業病という書き込みをフェイスブックで見つけシェアをした。

大企業病は自体を書くつもりはない。大企業病がなぜ起こるのか?

を少し考察してみたい。

理由は、多岐にわたるのだろうが、結論を先に言うと、自分の人生の目標をちゃんと設定できていないのが要因でないかと考える。

もしそれを、しっかりと設定できていたとしても、勘違いして設定いる人は多い。

社会人として、組織の一員として働くのであれば、その会社の掲げている目標が、自分の目標、もしくはその目標を達成した先で自分の目標にならなければならない。

大いなる個人目標は、今目の前の目標の達成の先にしか存在しないはずである。

個人の目標
  ↑
組織の目標
 ↑
自分の行動

とならなければならないはずである。

そうすることで、組織の目指す目標に対して、しっかり行動が起こすことが出来、一人の力が企業成長に大いにつがっていく。

その成功が自分の成功につながる。

ところがである。

この簡単であるが重要なロジックを理解せずに

会社の目標 
個人の目標
個人の行動

もしくは

会社の目標 個人の目標
   ↑    ↑
   自分の行動

となっていることが多い

会社が掲げる目標は、各社いろんな事を掲げられているが、ほとんどが行き着くところ企業の成長と社員の安定生活であるがそれを汲まずに自分で別の目標を掲げてしまう。

特に下の図は、状況により 組織か個人かで使い分けている。これでは目標がないのと一緒である。

上記のようなことが起これば、組織を構成する個人はどうなるか?

目標を安直に個人に向けるわけであるから、その時点で競う相手が変わってしまう。

本来ライバル企業や消費マーケットにいい意味で戦いを挑まなければならないのに、設定する個人目標に組織目標が組み入れられてないため、目標達成のために戦いを挑む相手が、組織を同じくする同僚の人間となってしまうのだ。

これでは企業競争力も何もあったもんじゃない。

とあるコンサルティングの知人からも同じ事を聞いた。

全く関連の無い部署で、調査したら驚くことに、全く同じ結果が出たというのだ。

家庭の安定を目的とする人が多い(これは個人目標。これでかまわない)

その目的達成のために、企業目標をしっかり把握し、その業務の結果から役職を勝ち取り、結果として、家庭の安定になる。(これが本来)

ところが、個人目標を直接求めるため、同僚などが敵になり、本来の企業目標を考えずに、他人との比較で行動を起こしてしまう。(これでは本末転倒)

全く同じ事である。

大企業に入ったという満足感が、次の目標設定を大きく狂わし、安定した生活を目先の目標に設定してしまえば、自ずと大企業病になってしまう。








2015年2月16日月曜日

継続的頑張るは最高の楽しみ

頑張るということの継続は何よりもつらいことだ。

でもそれ以上に楽しいことなんだ。

楽しみを感じだしたと同時に、それを否定する感覚も生まれてくる。そしてそれは楽しさを感じている間、永遠に消える事は無い。

それを乗り越え克服して、初めて楽しみなのだ。

楽しみを感じていないのなら、まだそれは頑張り切れていない証拠

何かが抜けている。もしくはもう少し精神的に強くなれば・・・・!!

自分の行動や思考を見直してみよう

2015年2月10日火曜日

一番を目指すには

「一番になる」

どこかの誰かが、二番ではだめなんですか?と馬鹿げた発言をした人がいたが、上を目指す以上、常に一番を目指すことは当たり前である。

一番を目指す以上はそれを明確な目的に掲げる必要があるが、良く勘違いをしている人がいる。

自分が住む奈良県で、奈良県で業界の一番を目指すとしよう。

あなたはその時、具体的にどのような行動に出ますか?

とうぜん、そのエリアの分析やエリア内業界他社の動向なんかを主終始見極めようとするでしょう。
それは決して間違ったことではありません。

しかし、エリアで一番を目指しいるのであれば、その言葉通り、本当にそのエリアの分析をすればそれで良いのでしょうか?

決してそうではない。そのエリアの一番を目指すなら、もっと大きなエリアを視野に入れなければ結果的にそのエリアの一番に成ることは出来ません。

僕はよく、他の経営者達とのお話の中で、「奈良で一番を目指すなら全国で150番を目指しなさい」といいます。

市町村で一番なら、都道府県一番を!

都道府県で一番なら、各地地方一番を!

地方で一番なら、全国一番を!

全国一番ならアジア一番を!

というように・・・

常に具体的に目指す目標のその上を目指し、目的達成を通過点とする考え方で取り組まなければ、本来の目標達成はほぼあり得ない。

何故なら、具体的目標達成には、必ず、それよりも上の要求や、情報が必要となってくるからだ。

奈良の一番を目指すのに奈良の情報だけで勝負してても一番になれるはずが無いでしょ

全国に目を向けるからこそ、その地域の一番になれるんだ!!

そうすれば目標達成の後の目標も素直に見えるし即行動に移れるんだ



目標は目標以上により高く!!







賛成をいう勇気

自分の考えは必ず露わにしなければならないと常日頃から思っている。

それは、同調の意見の時もあれば、反論の時もあり、また見方を変えて新しい提案もある。

大切なのは、いなかる時も自分の意見として、主張することが大切で、頭の中で思っていても表現しなければ、相手にとっては意見がないと一緒になってしまうということだ。


ただ、少数のグループディスカッションなどては主張することが多いかも知れないが、政治や経済論などの公共性の高いものになればそれは少し変わってくる。

主流派に賛成であれば、あえて賛成を声に出さなくなってしまう。
逆に反対であれば、相手の意見をしっかりと聞き入れる前から必要以上に反対を訴える。

というように、賛否により声のトーンが一気に変わってしまうのだ。

どうせ、自分が思うようになるならあえて声を出して目立つ必要は無いだろうという考え・・・・もしかしたらそれは、昔からある日本の美学なのかもしれない。

しかしよく考えてみよう。

今、自分の意見をなかなか持たず、人の意見を聞いてから自分の意見を持とうとする人達が増えてきている中で、果たしてそれで良いのか?

声を出した数だけを見れば、反対派の方が多数を占めてしまう状況で、流される人達は、結局反対派に流れてしまうのが、一昔前であったように思う。

数年前、自民党政権から民主党政権に変わったとき、それが大きく動いた。

自民党支持者達は、当時、どうせ与党なんだからと、大きな声を上げなかった。しかし、主流が民主党に動いた瞬間から、自分たちは反対派と成り、声を大きく出すようになった。

お陰で、与党に戻った今も、自分の意志を出さなかった人達も、賛成という意思表示をするようになったのだ。

メディアやネットが大きな力を持ってきている現在、本当の民意を明確にするためにも、賛成であっても、堂々と声を出して自分の意思を表示することが、大切である。

それこそが自分たちの手で次世代を作り上げていくことに繋がると確信する。