良く、議論の対象になるお話である
事前に断っておくが、決してどちらかを馬鹿にした話で無い
ドイツの劇作家 グラッペが残した言葉である
「女は自分が世界で有り、男は世界が自分である」
僕はこの言葉を30年くらい前にとある漫画で読んだ。
凄くうまく表現できているなぁと感心した言葉であった。
先でも書いたように決して、どちらかを馬鹿にしたのではない。
この言葉の意味は、女性は起こる事象を深く考え、男性は、起こる事象から先を考えると言うことである。
これは、うまく的を得た言葉と関心をしたものだ。
女性は現実論を納得するまで奥深く考察し納得しようとる
男性は、現実論から未来を推察し、それに向かって進んでいく。
ここからは個人の見解であるが、なぜ同じ人間の男女が髙も違うのか?
私なりの見解はこうだ。
一昔前まで男性は妻子を育て守っていくための生き物であった。
そのために頭を使い、身体を動かし、その時その時の最善の方法を考えながら行動をする。
時には議論し、時には争い、時には外に向けての決断をする。
組織においての責任もそこに起因するところかも知れない。
そもそも人間の男性は、動物的観点からそのように成長してきた。
動物的観点から見ればこれほどわかりやすいものはないだろう思う。
妻子を守り、子孫繁栄のために戦ってきたのが男性なのだ。
そのためには今を見つめるだけではなく先の予測、未来を見つめ、世界に目を向けることが、戦いに勝つ方法であったはずである。
では女性はどうか?
先ほどの話からすれば、動物的観点からすれば、最大の仕事は子を産み育てると言うことになる。
反感を買うかも知れないが、本来動物的観点、子孫繁栄という観点からすれば一番正しい答えとなる。
戦いは男性が行い、子供を産み育てるのは女性の仕事とされてきた。
ここで注目すべきは、産むは女性、守るは男性、しかし育てるは双方である。
当たり前なのだが、意味は少し違う。
男性は、えさ(お金)を持って帰ってくる事、そして世界観を教えることが育てるということになる。
女性は、人間としての基本となることを教えるのが仕事となるのではないか?
言い換えれば、子に男性は夢を教え、女性は現実を教える
ただ最近、これが逆転してきているように感じてしようが無い。
そんな不安を感じるのは自分だけなのだろうか?
女性の社会進出が駄目と行ってるのでは無いですからね・・・勘違いしないでね
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