2012年4月19日木曜日

人間の観念

人間の行動の善し悪しってどのように決めているのか?人は行動のすべてにおいて「やって良いこととやってはいけないこと」の判断をしている。
では、その判断基準ってどこで学んだのか?少なくとも生まれたての赤ちゃんにはその知識はない。生まれたての子供は、無の状態にある。その無の状態に、生まれた瞬間から、いろいろな情報がインプットされる。その長年にわたって蓄積された情報と、今自分が置かれている立場を考慮して無意識の間に善し悪しの判断をつけているのだ。これが人間の観念である。「これをしたら駄目、あれをしたら怒られる」というのは観念によってもたらされている。観念はある意味、常識を越えない(無理をしない)生活をしていく上において非常に大事なものである。しかし観念には、人間の夢を阻害する要因がある。自分に対する思い込みによる観念である。
たとえば犬が嫌いな人がいるとする。その人はどのような種類の犬を見ても反射的に嫌いだという判断の下で行動を起こす。しかしこれでは、いつまでたっても犬と接触する機会がなく新しい自分を見つけることはできない。中には努力して犬と接触しようとする人がいる。それは間違いではないが、その人の努力であって根本の解決にはつながらない。その人が犬が嫌いになった原因が必ずどこかにあるのである。遠い昔の話でその原因を忘れていたとしても必ず原因はある。その原因を見つけ、自分でそれを理解したとき犬嫌いを解決する糸口を見つけたことにある。その原因を見つけてこそ犬が嫌いだという思い込みからの脱却であり観念を打ち破ることにつながる。
少々例えがおかしかったかもしれないが、「してはいけない」という理由を自分でとことんまで問い詰めてみることが非常に大事である。その行き着くところが真実であり、その真実を見つめて、善し悪しを判断すればいいのである。そこに出てくる答えによっては、「してはいけないこと」ではなくなる可能性が充分ある。
人は観念を自ら打ち破ることができれば、新しい道が見え、その道が広がり、大きな野望が生まれる。これこそ人間が知らぬ間に忘れてしまった自分の夢への再挑戦である。「現状を打破して当たらし道を切り開く」という言葉もこれと同じだ。自分の周りに分厚く取り巻いている観念のバリアをいち早く打ち破ることこそ夢を現実のものとする近道である。
タダ怖いのは、先でも述べたように、正しい善し悪しの判断も観念が担っているため、観念を破ることによって暴走してしまう恐れがある。だからといって恐れてはいけない、万が一暴走してもきちっと周りの人の意見を聞く耳を持ち合わせていれば脱線はしない。他人が暴走を必ず教えてくれる。
観念を正しくぶち破った人間の行動は、非常に大胆であり、かつ繊細であり、目標に向かってぶれることはない。本来の人間の姿はそこにあるのではないかと思う。

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