あなたにとってのパートナーは誰でしょうか?
多くの方は配偶者を思い浮かべるでしょう。
確かにパートナーです。
しかし、パートナーという言葉はそんなに幅の狭いものではありません。
自分にとって必要とする人、もしくは、自分を必要としてくれる人はすべてパートナーとです。
配偶者、家族、従業員、参加している団体のメンバー 等々・・・すべての人をパートナーという権利を持った人たちだ。
ただ、残念ながら、ちょっと違うニュアンスで書いたように、全員がパートナーとなるわけではないです。
パートナーとなるためには、価値観を共有できなければ、本来のパートナーにはなれない。
形を作って思いが一緒でも、目指すプロセスや考え方が違えばそれはパートナーと言えない。
パートナーを形から入ってしまうと、価値観の違いや思いの違いから必ず歪みが生じ、亀裂が生じる。それは本来のパートナーとは言わないのだ。
会社においても、経営者が理念を掲げるからこそ全従業員が価値観を共有でき、共にパートナーとなれるのだ。
ではパートナーとは何なのか?価値を共有するということはどういうことなのか?
人間は価値観が共有できても、全く同じ人間ということはない。
お互いにないものがある。
そのないものを与え合うという行為こそがパートナーとしての一番大切なスタンスであると感じる。ゆえに、お互いが成長し続けてこそパートナーと言えるのだ。
そしてそれは、永遠に続くものもあれば、成長の過程で自然と価値観が変わり離れて行くものなのだ。
長いスパンで見た時、自分の付き合う相手が変わってきてる人は、良くも悪くも自分の価値観が変わってきていると思えば良い。
あなたの周りには、どんなパートナーがいてますか?
その人とは今までどんな関係できましたか?
2013年5月4日土曜日
2013年4月20日土曜日
信じることの大切さ
どこで聞いたわけでも、本で読んだわけでもない。
ただいくつのときからか、成就させたいことは、念じ続ければ必ず成就すると信じるようになった。
きっかけも覚えていない。
しかし、確かに強く念じ、信じ続ければ殆どの事が成就してきている。
(成就してないことは信じ足りないのが原因と思っているからかもしれないが・・・)
客観的に分析してみると、当たり前なのかもしれないが念じ、信じる裏側には、それに向かって無意識にいろんな努力をしているものだ。
そんな無意識のアプローチがあるから、成就できるものなのだ。決して偶然でもなくテレパシーでもない。
一番良くないのは、成就させたいことを途中で諦めてしまうことだ。
要求はするが、「そんなことはあり得ない」と諦めてしまえば、無意識のアプローチも消えてしまう。当然成就できるはずがない。
どんなに複雑なことであろうが、単純なことであろうが人間の要求は、その人の行動や意思によって必ず成功を収める。
成就できなければ自分を攻めるべきである。
なんか凄い終わり方・・・
さて、次は何を成就させようか?
ただいくつのときからか、成就させたいことは、念じ続ければ必ず成就すると信じるようになった。
きっかけも覚えていない。
しかし、確かに強く念じ、信じ続ければ殆どの事が成就してきている。
(成就してないことは信じ足りないのが原因と思っているからかもしれないが・・・)
客観的に分析してみると、当たり前なのかもしれないが念じ、信じる裏側には、それに向かって無意識にいろんな努力をしているものだ。
そんな無意識のアプローチがあるから、成就できるものなのだ。決して偶然でもなくテレパシーでもない。
一番良くないのは、成就させたいことを途中で諦めてしまうことだ。
要求はするが、「そんなことはあり得ない」と諦めてしまえば、無意識のアプローチも消えてしまう。当然成就できるはずがない。
どんなに複雑なことであろうが、単純なことであろうが人間の要求は、その人の行動や意思によって必ず成功を収める。
成就できなければ自分を攻めるべきである。
なんか凄い終わり方・・・
さて、次は何を成就させようか?
2013年4月16日火曜日
人を選ぶ 人に選ばれる
あなたはどちらを好みますか?
ほとんどの人は人に選ばれたい!と思うでしょう。
選ぶ側より選ばれる側の方が、一般的には責任が重く社会的ポジションが上な方が多い。
選挙などがその際たるものである。
でも本当にそうなんだろうか?
自分の人生を振り返った時、人に選ばれる人生と人を選ぶ人生なら、人を選ぶ人生の方がいいのではないだろうか?
人を選ぶ人生は、非常にリスクが高い。
自分の付き合いたい人間を選ぶわけであるから、周囲の人たちからみれば、非常にエゴイストのように見える。
しかし自分が自分の人生の方向性を決めて、それを目指していくにはそれぐらいの覚悟をもって取り組まなければ前進することはできない。
自分の人生に必要とされる人物をしっかりと定め選び込む。
そしてその付き合いの中から自分の成長に必要なものをしっかりと学んで行く。
それが人の成長の大きな一歩となることは明確である。
選ぶということはその裏返しもある。
自分にとって必要としない人物の排除である。
排除していかなければ、目標地点まで遠回りになるどころか、足を引っ張られ達成すら危うくなりかねない。
実は、人間はこれを無意識の中でやっているはずである。
自然な出会いと自然な別れという差し障りのない中で片付けてはいるが、多くの人がこれをやっているはずだ。
必要がないから疎遠になるのだ。
だからといって良いわけではない。
意識をして選択と排除をしなければ、目標を見失ってしまう。
そうすることによって人任せの人生から自分で自分をコントロールできる人生へと変わる。
では、選ばれるのを待つ人生は良くないのか?
決してそうではない。
選ばれる人生はもっと格別である。
ただ・・・・・・誰に選ばれるかによるが・・・
先で言った選ぶ人生をしている人物に選ばれればこれほど格別なことはない。
その人物の人生設計の中で、自分が必要とされているわけであるからこれほどの至福はないのである。
問題は、自分の目標をしっかりと定めず人生を送っている人物に選ばれるとこれは厄介だ。
丁重にお断りするしかない。
もしくは、選ばれない行動を常日頃からとっておくべきである。
ある意味それも人を選ぶ人生なのかもしれないが・・・
いずれにしても人を選ぶ人生も選ばれる人生も、双方がしっかりと目標を持って歩んでいるもの同士が自然と引き合うことは間違いない。
あなたの周りに選びたい人いますか?
自分を選んで欲しいなぁと思う人いますか?
そんな人物が多くいる場所に勇気を持って飛び込もう。
一度きりの人生だから・・・
ほとんどの人は人に選ばれたい!と思うでしょう。
選ぶ側より選ばれる側の方が、一般的には責任が重く社会的ポジションが上な方が多い。
選挙などがその際たるものである。
でも本当にそうなんだろうか?
自分の人生を振り返った時、人に選ばれる人生と人を選ぶ人生なら、人を選ぶ人生の方がいいのではないだろうか?
人を選ぶ人生は、非常にリスクが高い。
自分の付き合いたい人間を選ぶわけであるから、周囲の人たちからみれば、非常にエゴイストのように見える。
しかし自分が自分の人生の方向性を決めて、それを目指していくにはそれぐらいの覚悟をもって取り組まなければ前進することはできない。
自分の人生に必要とされる人物をしっかりと定め選び込む。
そしてその付き合いの中から自分の成長に必要なものをしっかりと学んで行く。
それが人の成長の大きな一歩となることは明確である。
選ぶということはその裏返しもある。
自分にとって必要としない人物の排除である。
排除していかなければ、目標地点まで遠回りになるどころか、足を引っ張られ達成すら危うくなりかねない。
実は、人間はこれを無意識の中でやっているはずである。
自然な出会いと自然な別れという差し障りのない中で片付けてはいるが、多くの人がこれをやっているはずだ。
必要がないから疎遠になるのだ。
だからといって良いわけではない。
意識をして選択と排除をしなければ、目標を見失ってしまう。
そうすることによって人任せの人生から自分で自分をコントロールできる人生へと変わる。
では、選ばれるのを待つ人生は良くないのか?
決してそうではない。
選ばれる人生はもっと格別である。
ただ・・・・・・誰に選ばれるかによるが・・・
先で言った選ぶ人生をしている人物に選ばれればこれほど格別なことはない。
その人物の人生設計の中で、自分が必要とされているわけであるからこれほどの至福はないのである。
問題は、自分の目標をしっかりと定めず人生を送っている人物に選ばれるとこれは厄介だ。
丁重にお断りするしかない。
もしくは、選ばれない行動を常日頃からとっておくべきである。
ある意味それも人を選ぶ人生なのかもしれないが・・・
いずれにしても人を選ぶ人生も選ばれる人生も、双方がしっかりと目標を持って歩んでいるもの同士が自然と引き合うことは間違いない。
あなたの周りに選びたい人いますか?
自分を選んで欲しいなぁと思う人いますか?
そんな人物が多くいる場所に勇気を持って飛び込もう。
一度きりの人生だから・・・
2013年4月7日日曜日
ペンドクター 人間の思い込みのお話
ペンドクター 万年筆を使われてる人たちは知っていると思う。
万年筆の微調整などをしてくれる人のことである。
最近万年筆を使い出した新米がいうことではないが、万年筆はほんのチョットした微調整で劇的に書き味が変わるという。
当然すべての万年筆に共通の調整をするのではない。
使い手一人ひとりの癖にあった調整をしてくれるのだ。
その人の癖を見抜き、ペン先にヤスリを充てる。
自分はまだ経験は無いが劇的に変化があるらしい。
微調整してもらった人は、その書きやすさに感動するらしい。(経験もないのにブログに書くなという声が聞こえてきそう)
ただ僕がここで書きたいのはそんな話じゃない。
ペンドクターに言わせると、全く調整する必要のないペンもたまにあるという。
ただそのペンの持ち主は、書きにくいと感じている。
こんな時、あなたならどうする?
普通であれば、「このペンは調整しなくても最高の状態で大丈夫ですよ」と言ってしまいまいそうだ。
でも、書き味が悪いと感じている持ち主に、「これ以上、良くはならない」と言っているのと一緒になってしまう。
そうするとその持ち主は、その万年筆を徐々に使わなくなってしまう。
そこで、このペンドクターは、ヤスリを充てるポーズだけで削りはしないらしい。
そして「如何ですか?」と客に確認させるらしい
客は、「おー!格段に書き味が良くなった」と感動してくれるという。
決して客を騙してるわけではない。
ペンドクターのカリスマ性が、使用者の「ペンドクターが触れば、書き味が良くなる」という暗黙の思い込みを、うまく逆手に利用して、持ち主を納得させている。
喜んで持ち主は帰り、その万年筆を使い続けてくれるという。
人間の思い込みというのは、良くも悪くも不思議なもんですなぁ。
あーーちなみにこのペンドクター、これで代金はとっておられませんから、お間違えのないように・・・
万年筆の微調整などをしてくれる人のことである。
最近万年筆を使い出した新米がいうことではないが、万年筆はほんのチョットした微調整で劇的に書き味が変わるという。
当然すべての万年筆に共通の調整をするのではない。
使い手一人ひとりの癖にあった調整をしてくれるのだ。
その人の癖を見抜き、ペン先にヤスリを充てる。
自分はまだ経験は無いが劇的に変化があるらしい。
微調整してもらった人は、その書きやすさに感動するらしい。(経験もないのにブログに書くなという声が聞こえてきそう)
ただ僕がここで書きたいのはそんな話じゃない。
ペンドクターに言わせると、全く調整する必要のないペンもたまにあるという。
ただそのペンの持ち主は、書きにくいと感じている。
こんな時、あなたならどうする?
普通であれば、「このペンは調整しなくても最高の状態で大丈夫ですよ」と言ってしまいまいそうだ。
でも、書き味が悪いと感じている持ち主に、「これ以上、良くはならない」と言っているのと一緒になってしまう。
そうするとその持ち主は、その万年筆を徐々に使わなくなってしまう。
そこで、このペンドクターは、ヤスリを充てるポーズだけで削りはしないらしい。
そして「如何ですか?」と客に確認させるらしい
客は、「おー!格段に書き味が良くなった」と感動してくれるという。
決して客を騙してるわけではない。
ペンドクターのカリスマ性が、使用者の「ペンドクターが触れば、書き味が良くなる」という暗黙の思い込みを、うまく逆手に利用して、持ち主を納得させている。
喜んで持ち主は帰り、その万年筆を使い続けてくれるという。
人間の思い込みというのは、良くも悪くも不思議なもんですなぁ。
あーーちなみにこのペンドクター、これで代金はとっておられませんから、お間違えのないように・・・
2013年3月19日火曜日
友を呼ぶ呼び方
人は多くの人に囲まれている生きている。
他人とコミュニケーションを図るとき、その人に対しての呼び方がある。
人はそれぞれ、自分から見て立場が違う。それは相手も同じことだ。
それは、家族、友人、先輩、同輩、後輩、上司、部下・・・・・・
ありとあらゆる立場の人がいる。
では、それぞれの立場の人は全員同じ付き合いなのか?
自分にとって先輩と言われる人は、すべて同じ付き合いをしているかということである。
決してそうではないはずだ。人間同志の関係は、そんな単純なものではない。
一人一人付き合い方が変わるのが当たり前である。
一つの枠に押し込めて、同じコミュニケーションの取り方をする方がむしろ、関係を悪化させかねない。
さてここで、そのコミュニケーションにとって非常に大切な相手を呼ぶ呼び方に着目しよう。
相手が先輩であれば、必ず、◯◯さんとか、◯◯先輩と呼んでいるか?
決してそうではないはずだ。
人間関係の深さによってその呼び方は変わるはずである。
より深くなれば、より親しみのある呼び方で呼びたいし、相手からも呼んでもらいたい。
先輩後輩の関係であっても、あだなで呼んだり、ちゃん付けで呼び合ったりしているのを見ることがある。
それこそが、その二人の関係をすごく表してる一番わかりやすい表現だ。
では、親しみを感じれば、自分から率先して、親しみのある呼び方で呼んでいいかというと決してそうではない。
当然相手の合意の元でなければ関係をを悪化させてしまうことは当然だ。
出逢って2回目で、先輩に◯◯ちゃんと呼んでしまえばそれで関係は終わってしまう。
一にも二にもお互いの理解がどこまで深まっているか、またそれをお互いがどこまで理解しているかが非常に大切である。
いつどのタイミングで、親しみを持って呼べばいいか?これには答えはない。
それこそそのタイミングが一致しなければ、難しい。
僕も何人かの先輩には、あだ名もしくはちゃん付で呼ばせてもらってる先輩がいる。
初めて、呼ばせてもらった時はドキドキしたものだ。
怒られるのではないか・・・・など思いながらチャレンジした。
ニコッとしてただいた瞬間は忘れることができない。
認めてもらえた瞬間だ。
逆に、後輩が親しみを持って呼んでくることがある。
自分の経験を当てはめながら、ドキドキしてるなと思いながら、ニコッとする。
また自分はOKなのだが、呼んでこない後輩もいる。
まだまだ自分が壁を持っているのかと、反省することもある。
親しく呼び合えることは、先輩に対しても、後輩に対しても、どちらにしても、大きな壁が壊れた瞬間だ。
そんな関係ができる人達と、ドキドキしながら常に成長する人間関係を構築して行きたい。
他人とコミュニケーションを図るとき、その人に対しての呼び方がある。
人はそれぞれ、自分から見て立場が違う。それは相手も同じことだ。
それは、家族、友人、先輩、同輩、後輩、上司、部下・・・・・・
ありとあらゆる立場の人がいる。
では、それぞれの立場の人は全員同じ付き合いなのか?
自分にとって先輩と言われる人は、すべて同じ付き合いをしているかということである。
決してそうではないはずだ。人間同志の関係は、そんな単純なものではない。
一人一人付き合い方が変わるのが当たり前である。
一つの枠に押し込めて、同じコミュニケーションの取り方をする方がむしろ、関係を悪化させかねない。
さてここで、そのコミュニケーションにとって非常に大切な相手を呼ぶ呼び方に着目しよう。
相手が先輩であれば、必ず、◯◯さんとか、◯◯先輩と呼んでいるか?
決してそうではないはずだ。
人間関係の深さによってその呼び方は変わるはずである。
より深くなれば、より親しみのある呼び方で呼びたいし、相手からも呼んでもらいたい。
先輩後輩の関係であっても、あだなで呼んだり、ちゃん付けで呼び合ったりしているのを見ることがある。
それこそが、その二人の関係をすごく表してる一番わかりやすい表現だ。
では、親しみを感じれば、自分から率先して、親しみのある呼び方で呼んでいいかというと決してそうではない。
当然相手の合意の元でなければ関係をを悪化させてしまうことは当然だ。
出逢って2回目で、先輩に◯◯ちゃんと呼んでしまえばそれで関係は終わってしまう。
一にも二にもお互いの理解がどこまで深まっているか、またそれをお互いがどこまで理解しているかが非常に大切である。
いつどのタイミングで、親しみを持って呼べばいいか?これには答えはない。
それこそそのタイミングが一致しなければ、難しい。
僕も何人かの先輩には、あだ名もしくはちゃん付で呼ばせてもらってる先輩がいる。
初めて、呼ばせてもらった時はドキドキしたものだ。
怒られるのではないか・・・・など思いながらチャレンジした。
ニコッとしてただいた瞬間は忘れることができない。
認めてもらえた瞬間だ。
逆に、後輩が親しみを持って呼んでくることがある。
自分の経験を当てはめながら、ドキドキしてるなと思いながら、ニコッとする。
また自分はOKなのだが、呼んでこない後輩もいる。
まだまだ自分が壁を持っているのかと、反省することもある。
親しく呼び合えることは、先輩に対しても、後輩に対しても、どちらにしても、大きな壁が壊れた瞬間だ。
そんな関係ができる人達と、ドキドキしながら常に成長する人間関係を構築して行きたい。
2012年4月19日木曜日
人間の可能性
人間はアナログな生き物ではあるが、実はデジタル的な判断の集大成で存在している。
どういうこと?
と思われるだろう。
実は人間は一日に数万回の判断をしている。
YesかNoの判断をである。
わかりやすところから説明してみよう。
朝起きるに際しても、起きるかどうか?の判断し、顔を洗うかどうか?朝ごはんを食べるかどうか?人間の行動を記しただけでもいくつもの行動を判断している。
その行動を細かく分析すると、そこにはYesかNoの判断があるのだ。
それを全て数えると一日に数万回の判断をしていることになるそうだ。
人間は昔から、無限の可能性があると言われている。
積極的な行動を起こせば、そこには想像をすることもできない世界が待っている。
ゆえに何事にも前向きに取り組めと・・・・
しかし選択の集大成が人間の行動であるならば決して無限ではない。
選択した数だけ、人生のゴールがあるということになる。
確かに無限と言っていいぐらいの数ではあるが・・・
人間には無限の可能性があるとはうまく言ったものだ。
いずれにしても、神経質になる必要はないが、要所要所の判断が、自分の人生を大きく作用し、最終のゴール地点を大きく左右することは間違いない。
人生の重みをシッカリと感じながら毎日を生きよう
どういうこと?
と思われるだろう。
実は人間は一日に数万回の判断をしている。
YesかNoの判断をである。
わかりやすところから説明してみよう。
朝起きるに際しても、起きるかどうか?の判断し、顔を洗うかどうか?朝ごはんを食べるかどうか?人間の行動を記しただけでもいくつもの行動を判断している。
その行動を細かく分析すると、そこにはYesかNoの判断があるのだ。
それを全て数えると一日に数万回の判断をしていることになるそうだ。
人間は昔から、無限の可能性があると言われている。
積極的な行動を起こせば、そこには想像をすることもできない世界が待っている。
ゆえに何事にも前向きに取り組めと・・・・
しかし選択の集大成が人間の行動であるならば決して無限ではない。
選択した数だけ、人生のゴールがあるということになる。
確かに無限と言っていいぐらいの数ではあるが・・・
人間には無限の可能性があるとはうまく言ったものだ。
いずれにしても、神経質になる必要はないが、要所要所の判断が、自分の人生を大きく作用し、最終のゴール地点を大きく左右することは間違いない。
人生の重みをシッカリと感じながら毎日を生きよう
一人の力
人の力は対したものだ。
ほんの一部の人間を入れ替えるだけで、劇的に組織が変わる。
じゃあ今まではなぜその組織は動きを見せなかったのか?
理由はいくつもある。
馴れ合い
やる気のなさ
価値観
ちなみに命令は一切変えていない。
にもかかわらず、2、3ヶ月で劇的に変化を起こしている。
改めて組織を組む時の人選の大切さを実感。
会社が動くぞ!
ほんの一部の人間を入れ替えるだけで、劇的に組織が変わる。
じゃあ今まではなぜその組織は動きを見せなかったのか?
理由はいくつもある。
馴れ合い
やる気のなさ
価値観
ちなみに命令は一切変えていない。
にもかかわらず、2、3ヶ月で劇的に変化を起こしている。
改めて組織を組む時の人選の大切さを実感。
会社が動くぞ!
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