2013年8月12日月曜日

成長の手法

今までにも書いたかもしれない。

人が成長するためには、新しい知識と経験が必要です。

成長するためのエネルギーは、この二つです。が、この二つだけでは、実は成長は望めません。

もう一つ大きなものが必要です。

それは、成長したいという強い願望です。

この願望がきっかけとなり、経験と知識が肥やしとなり人間は成長します。


人間は大人になり社会人となると、その職種などにより何らかの専門的知識と経験を持ちます。

そして、そしてより極めようと、高度な知識を持ち、経験を積みます。

高度に極めたいというのが願望です。


これはこれで素晴らしいことですし、極めなければならないでしょう。

しかし、ある一定のレベルに達すると、その成長の速度は著しく低下します。

これはすべてに言えることで、高度になればなるほど、新しく学ぶことが減って当然だからです。


ではここで、成長を諦めるべきなのでしょうか?

多くの人は、速度が鈍くなっても極めようと努力するでしょう。

それはそれで間違いでははありません。

しかし、時間対効果を考えれば極めて非効率であることは間違いありません。


実はもう一つ手法があるのです。

それは、専門以外のことにチャレンジをするということです。

物理的行動でなくて良いのですが、今までの脳を切り替えてしまうわけです。

そうすることにより、目線が変わり、見方が変わります。

見方が変われば、必ず、今まで見えていなかった領域が見えだし、新しい知識の習得なり、専門領域の深度、もしくは幅が広がり、より極めたことになるわけです。

確かにこの方法は、リスクが伴いますが、ほとんどの成功者は、この方法を無意識に実践しています。

これは、会社組織においても同じことが言えます。

弊社を例にあげて書いて見ましょう。

技術部門で、行き詰まった事象が発生しました。

そしてその解決のために、本部長以下数名の技術職員が集まり、解決策を見出そうとしています。

確か良い解決策が見出せるかもしれません。

しかしその確率は、非常に低いと言わざるおえません。

何故なら、技術のプロが作り出しシステム上の問題点を、同じメンバーで解決しようとしても、なかなか新しい意見は出てこないものです。

他メンバーをいれても、同じ技術職員であれば、あまり変化は望めません

ある意味完成されてるわけですから、よほどのことがない限り良い解決策は生まれてこないのです。

先に書いた、人の成長の一定の成長をしてしまった人間が、ある一定の成長を超えると、その速度著しく低下する領域に組織として入ってしまっているからです。


ではどうすればよいうのか?

目線を変えるということです。

問題解決のメンバーの中に、それを強く意識できる社員がいれば、大したリスクではないでしょうが、会社組織において目線を変えるというのは、個人の時のようには行きません。

非常に高いリスクを伴います。

ただ解決策は実は簡単なところにあります。

他部門の人間をそのメンバーにいれるということです。

そうすることにより、その問題解決メンバーの目線は変わったことになります。

当然、他部門の人間を入れるだけではダメで、そのメンバの意見を前向きにしっかりと聞き入れなければなりません。

その意見を素人だからと半分くらいにしか聞かなければ、何の役にも立ちません。

会社が大きくなれば、他組織が社内にあるわけですからこのよう事は簡単にできます。(現実はそうでもないみたいですけどね・・・プライドなんかが邪魔して・・・・)

問題は、小さな会社です。

経営者までもがPlayerのような会社は大変です。

目先を変えれる他部門が無いわけですから・・・

では社外に助けを求めればいいのか?

実はなかなかそうも行きません。

その人物がどんは人かもわからず、なかなか相談がかけれない訳です。


やはり日頃から、自分たちが必要とする人間を客観的に考え、常に顧問的な存在をおいておくということが必要なのかもしれません。

そのためには日頃から、一分野に特化した知識を習得したりその分野だけの人と付き合うのではなく、グローバルな目線を持って知識と経験を強く習得することが必要なんでしょうね。

これは、組織にも個人にも言えることですが・・・

これはとある会社の社長さんに宛てた文章です。

他のみなさんにもご参考になればどうぞ



2013年8月7日水曜日

人間のうちに秘めたるものとは

人間がうちに秘めているもの

それは色々あるだろう。性格 信念 嗜好・・・・ もしかしたら挙げるときりがないくらいあるのかもしれない。

そしてそのほとんどが、今の自分を築いているベースとなっている。

ある意味それだけ大切なものなのだ。

大切なものだからこそ、自分でしっかりと理解しなければならない。

自分がどんな人間なのか?

自分の考え方のベースになっているものは何なのか?

そしてその良し悪しも・・・


とある問題が起こっているとしよう。

その問題を引き起こしている要因は数多くあるだろうが、自分が問題となっていることが非常に多い。

それも自分のうちに秘めたる要因によってである。

そしてそのような場合、大概の人間は、自分のうちに秘めたるものの良し悪しがわかっていない。

それがわかっていれば、その問題解決は容易であり、問題を広げることもない。

しかし、人間というのは、自分を客観的に見て、自分を否定することが苦手である。

自分の良くないと思うことを認めたくない動物なのである。


しかし、そのままであれば、成長を止めてしまう

たまに、俺は俺だ!ほって置いてくれ!!と気勢を張っている人がいるが、冷静な周りの人間からすれば、情けないの一言に尽きる。

多くは問題が起こった時に自分のことは棚にあげ、他人やシステムに問題の要因を見つけようとするのがその典型である。


では人間がうちに秘めたるものとはどのようなものでなければならないのか?


ここからは私見である。

常に成長し続けるものであると認識することが大切である。

成長し続けるとは、変化し続けるものだということである。

人が持つ性格や思考は、人が意識してつくるものではない。

生まれた時から、周りの環境や経験から徐々に構築されていくものである。

ということは言い換えれば死ぬまで成長し続けるものなのだ。


では、信念はどうなのか?

何か新しいものに取り組もうとしたとき、人間は強い意志によって行動を起こす。

この強い意志が信念である

その強い思いの元、行動に移されるのだ。

ではこれは曲げてはいけないのか?

私は、性格や思考、嗜好などと同じものだと考えている。

これも、経験と知識により成長し続けなければならない。

時代の流れの中で、事を起こしている限り、変化を免れることはない

もし成長を止めてしまえば、その信念から生まれた事柄はいずれ破綻してしまう。社会が変化し続ける中で、自分は変わらないと言ってるにすぎないからである。


人間はこの内に秘めたものをベースに良し悪しを判断しているのだ。

自分が経験するものや、いろんなところから得た知識なども、これをベースに判断してると言って良い。

ゆえに非常に大事であるのだが、大事にしすぎることにより、それ自体の良し悪しの判断ができていない。

自分のうちに秘めたるものは、こうなんだ!と自信を持つことは大切であるが、同時に明日には変化していると言うことも意識として持たなければならないのだ。



自分の成長を妨げているのは、実は曲げないうちに秘めたるものであるということが言える。


マイペース

マイペースとは実は僕の一番嫌いな単語の一つである。



得てして人間はマイペースに陥りがちであるが、嫌いと言う自分も御多分に洩れず、ほとんどの生活をマイペースで過ごしている。

明らかに矛盾ではあるが、僕のいうマイペースとは少し違うのだ。


決して自分のいつもの速度よりも早く行動しなさいと言っているのではない。


よく「お前はマイペースやなぁ」と良くない例えで使われることがあるが、これは何に対しの比較で言っているのか?

これは周りとの比較に対して言っているのだ。

集団で行動を起こそうとする時、一人がそれに合わせてこない時などに使われる。

僕が嫌いなマイペースはこれである。

これは行動の速度だけではない。意識や知識の問題も含まれる。

意識や知識も人に遅れをとっていれば、全体の進行に関わる。

当然周りはフォローするが、大切なのはその遅れをとっている人間の、遅れを取り戻そうとする意識が大切なのだ。

ここでもマイペースは大きく足を引っ張る。

一人で生きて行く上においては、マイペースで構わないが、人間は、幼稚園に入った瞬間から、死ぬまで集団生活の中で生きて行かなければならない。

集団におけるマイペースほど他人ん迷惑をかけるものはない。

マイペースのすべてが嫌いではない。一人で何かを解決しようとしている時や物事にふけっている時などはマイペースでなければならないと思う。

マイペースの使い分け 大切ですよね。




2013年7月1日月曜日

会社で起こった問題について

人間はどうしても、身の回りの問題を極力解決を自分で図ろうとする。

それは決して間違いではない。

しかしそれは自己完結される問題に限ってである。


その発生している問題に、人が絡んでいるとき、ましてや、問題の対象者が人である場合は、特別な場合を除き絶対に自己完結させようとしてはいけない。

なぜなら、自分の考えるスタンダードと相手の考えるスタンダードがズレていれば問題の解決にはならない。

それどころか問題を大きくさせてしまうことが往々にしてある。

そのズレを補うのは、複数の人で問題解決に当たりズレを極力無くすか、それ相当の経験を積んだ人間が対応するしかないのだ。

先週起こった問題は、そんな簡単なことも教えてくれている。


会社の中にはリスクを予防する方法は準備できているはずだ。

しかしそれを活用しなければ、それは、準備したことにはならない。

書類の流れや、各種会議の意味合いとはそういうことだ。



2013年6月15日土曜日

日本原理主義者

こんな書き方をすれば、またまた光良過激なことを書こうとしているとお感じなるかもしれないが、この言葉は、作家の浅田次郎氏が書かれたことである。(はずである・・・)

私たちは戦後、高度経済成長ののちバブルを迎え、その崩壊により、超長期に渡るデフレという中で経済的には大打撃を受けてきたが 個人の考え方と生活スタイルだけは追求し成長を遂げてきた。

ただそれが、秩序あるものものであれば良いのであるが決してそうではない。

効率的、スタイルのかっこよさを追求するあまり、またそれが良いという自己の主張をしない、右に習え的な要素が加わり、加速度的に今の生活スタイルや国民意識までも変えてきてしまったのだ。

浅田氏がいうのはこのことなのだ。

私も深く同意する。

本来、日本人とはどんな人種だったのか?世界中でも数少ない単一国家単一民族の誇りと守らなければならない文化はどこに消え去ったのか?

世間を歩けば、日本語を話す西洋人のような日本人がほとんどである。

物理的なスタイルは良いとしても、日本人としての本来の心や文化はは忘れてはいけない。

日本人個人が心や文化を失わない限り、日本という国のスタイルは失われることはない。

個人個人がそんな意識をしっかりたもちたいものだ。

個人個人が日本を本気で愛する気持ちを持ちたい。

日本原理主義 万歳!!

サラッといつもの気持ちです。

2013年6月14日金曜日

感情のコントロール

感情には、喜怒哀楽に代表されるように常々人間が生きていく上においてつきまとう心の表れである。

ある意味、人間として生きているという実感を得ることが出来る事柄の一つであろう。

ただ人間社会を生きていく上で、この感情をあからさまに出すことは人間関係を構築する上に置いてよしとされるものではない。

出せるときにはどんどん出せば良いが、TPOに合わせ、そうでないときが多々ある。


人間はそんなとき感情をコントロールする。


実はこのコントロールには2種類ある。

よく使われるのは、高ぶってしまっている感情を抑え込むと言うことである。

これでよく見るおもしろい光景がある。

電車の中等で、子供が大声を上げて泣いている。

内容は解らないが、子供が何らかの理由で泣くという行為で感情を出しているのだ。

ただ、電車の中という状況を考えると親としてはそれを押さえさせなければならない。

必死であやす親が多い。

これは普通によく見る光景だ。

あやすという行為によって感情を抑えさせようとしている。

至って当たり前の光景である。

だがたまに、こんな光景を見る。

同じ状況で、親が大声で子供をしかりつけて黙らそうとしている状況である。

感情のコントロールが出来ない子供に感情をコントロールすることなくあらわにして叱りつけているいる親がいる。

どっちがどうやねん、といいたくなる笑える光景である。


それはさておき、感情の高ぶりを押さえるコントロールの他にもう一つのコントロールがある。

それはその逆の行為、平心状態からワザと高ぶらせるというコントロールだ。

皆さんも何回かは経験あるだろう。

高ぶってる感情を押さえることもエネルギーのいることだが、その逆は実はもっとエネルギーがいる。

一時的に高ぶらせることはそんなに難しくないが、それを持続させるというところに非常な難しさがある。

それこそ感情のコントロールだ。

コツなんて無いのかも知れない。

またそこまでする必要があるのかという声も聞こえてきそうだが、でもなりきれば楽しいもんなんですよね!!

2013年6月13日木曜日

僕の時間軸 人の時間軸 地球の時間軸 宇宙の時間軸

あなたは物事をを考えるときどんな時間軸で判断しますか?

ほとんどの人は、当たり前であるが、自分の時間軸で物事の判断をするはずである。

それは何も不思議ではない。当然のことだ。


ひとりの人間の時間軸の単位は、平均寿命と置き換えれば、だいたい85歳ぐらいになる(あくまでも男女の平均の平均くらい)

人間が物事を無意識に判断するときの時間軸は、案外これにの乗っ取っていることが多い。

自分の人生を、ベースに考え、それがすべての時間軸のように判断している。

ただ、すべての事象が、人間1人の時間軸で語られているかというと実はそうではないのだ。

たとえば、動物の進化をテレビのドキュメンタリーで見たいたとしよう

1時間ないしは2時間の番組の中で、実は数千年の進化を見せてしまう。

確かに、1時間や2時間で人類は何の進化も起こさないのは理解はしているが、テレビの中で語られている時間軸をしっかりと把握しながら番組を見ているかというと決してそうではない。

これを宇宙に置き換えてみよう

地球の誕生と月の誕生が45億年くらい前である。

もう想像できない時間軸がそこには存在するのだ。


それから考えると人の人生は本当に一瞬でしかないが、人間は時間軸においても自分を中心とする主観的物事で捉えていると言える。

そうしてもその時間軸が主になって考えてしまう。

得てして真実を見誤りかねない。

飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代、明治時代、大正時代、昭和時代、平成時代
歴史で学ぶ年表に出てくるそれぞれの時代を順に書いて見た。

自分の馬鹿さを暴露することになるかもしれないが、今書いた時代はすべて、並列にあるものと思っていた。

西暦で考えればなんてことない話だが、学校で学んだ時はそのように考えていた。

いうまでもなく、明治、大正、昭和は他のものとは一緒ではない。この3つについては年号である。

他はそうではない。言わば、明治、大正、昭和は人の時間軸で判断できる表現されたものであり、その他は日本という時間軸で表現された歴史である。

わかってみれば当たり前だが、深く考えると何と無く複雑になってくる。

個人と人、 国と世界、 そして宇宙、それぞれ同じ時間で動いているにもかかわらず、ものの大きさによってその表現方法は変わってしまう。

冷静に判断しなければ大きな勘違いにつながってしまう。

主観で物事を判断すると大変なことになるという一つの例